2017年6月28日水曜日

鴨川フィールドワークと【仙太郎の水無月】

6月25日、小雨が降ったり止んだりする中、『鴨川沿いを歩くフィールドワークイベント』を決行いたしました!私主催のイベントは本当にいつも雨の日ばかりで、毎回毎回参加者の方には申し訳ないです・・・。100%雨女。この時期の太陽は厳しいので、多少雨交じりが適温で、ありがたい限りです。



さて今回のフィールドワークを簡単にまとめたいと思います。

本当は鴨川上流の賀茂川から七条辺りまで歩きたいところではありますが、距離と時間的なものを考えて、丸太町橋西詰に集合して、のんびり四条大橋まで歩いて、東岸せせらぎの道を三条まで上がって終了という流れになりました。
(参加者の都合や体力的なこともありますが、今回はかなり、歩きましたね~。もしまたこのような機会があったら、どこどこからここまで、などの希望お伺いしますのでぜひどうぞ。)



丸太町橋西の建物は実は登録有形文化財です。スーパーが入っています。
この辺り、女学校で新島八重が教鞭を取っていた地でもあり、女工場跡という石碑がありますので分かりやすいかと思います。


丸太町から少し下がって、何やら合流地点らしきものが見えてきました。
実はここから琵琶湖疏水が合流するのです。

疎水は途中、夷川発電所という水力発電所を通ります。(100年前の煉瓦造りで、今も現役です)


ここで合流する水は、鴨川の水位を調整しながら放流されます。
この日は雨で少し水量が増していたので、関が完全に止まっていましたが、ごおおおおおおおっと音を立てて流れ出ている時もあります。



西岸では、鴨川からの分流『禊川(みそそぎがわ)』が顔を出します。
これは今出川通りの加茂大橋付近から分流しており、丸太町下がったところでようやく顔を出します。


二条~五条間の納涼床の下を流れているのがこのみそそぎ川なのです。ここ、京都検定で引っかけ問題として出てくるのですが、納涼床は二条~五条間で、雑誌やネット記事でよく見る三条~四条間という範囲は間違っているのでご注意。
大概の人はそこまで気にしないでしょうが、大事なことなので書きました。

(それと、禊川は、鴨川の古称とも言われます。地図に名前が載っていたり載っていなかったりなので鴨川と区別するほどでもない、、、のかな。)
鴨川と禊川が並行して流れます。小魚が泳いでいますよ。
歩行者用通路も並行して整備されているので、こちらも歩いてみるべし!


二条あたりで飛び石が見られます。千鳥と、舟。なぜここでこのデザインの飛び石があるのか、考えてもらいました。
なんででしょうー?

この飛び石あたりの地点で、禊川がさらに西へ分流します。
そう、高瀬川が始まるのです。ということはこの地点で高瀬川も並行して流れていることになります。


余談ですが、角倉了以邸と、一の舟入が木屋町二条付近にあります。(4月の高瀬川のブログを参照していただけると分かりやすいかと思います。)




二条大橋から南、納涼床が建つので、鴨川より高い位置を流れていた禊川が鴨川との高低差を無くすためこの分流地点から一気に下ります。ここは吸い込まれるような勢いがあるので、坂を上って流れを見るときは充分注意してください!!


三条大橋まで来ました。五条大橋(国道1号線)と同じく、豊臣秀吉の命により建ったご公儀橋です。
東京日本橋からの東海道の終着地点であり、京の入り口。元祖京都のメインストリートであります。
三条大橋~上野不忍池までの日本の駅伝発祥の地でもあるんです。(今年100周年!)



擬宝珠(ぎぼし)は当時のものを使っていて、豊臣、増長、天正、などの文字が見られます。
真ん中辺りにある刀傷は、幕末の動乱期、池田屋事件でついた刀傷。時代を経ているので、傷らしきものがたくさんついていて分かり辛いですが、見つけた時はぜひ喜んでください。

昭和の戦時下では橋の鉄部分や擬宝珠を回収されてしまった橋もあるようですが、さすがに天下の三条大橋は免れたようです。そう思うと現代に残った遺産は奇跡的ですよね。


三条河原、といえば、鋭い人はお分かりでしょう。処刑場でした。(きゃーーー)


大阪夏の陣以降の豊臣家の人々、石川五右衛門、近藤勇、、名立たる人物がここで処刑されたのです。当時の鴨川は川幅が両方面にもっとあったので、本来この地の下、というわけではありませんが、角倉了以が高瀬川開削中に豊臣一族が処刑された塚を発見したそう。

↑納涼床は下から見るとこんな感じです。5月~9月までやってます。ランチなら席料なし比較的お安いところも。夜のコースはやはり千円札や一万円札が飛んでいくぐらいするらしいので、覚悟が必要です(笑)基本、予約がベターです。



ここで、あの飛び石の話に戻りますが、
五花街である先斗町の提灯が千鳥模様にちなんで、千鳥の飛び石、高瀬川を高瀬舟で往来したのにちなんで高瀬舟の飛び石が配置されているのではないかなと思います。
荒神橋付近には亀の飛び石がありますが、付近の町名が亀井町だから亀。踏むのがかわいそうだけども。


そんなこんな一例です。
他に、川の底に敷いてあるコンクリート板は何のため?や、
三条・荒神橋にある階段ではなくてスロープのような降り口は何のため?
などを考えてもらいました。


四条大橋付近では、左京区を流れてきた白川が合流。ここは鴨川の水位関係なく流れ込みます。

四条大橋は今でこそメインストリートのようなものですが、昔は八坂神社への参詣路であり通行料を取っていました。“参詣路”という石碑があります。

今ではこのご立派な橋、通行量が多く耐震のためコンクリートで近代的な橋です。
所々に、京都市のマークとシンボル御所車の飾りが。




さて、端折ったつもりでもこんなに長くなってしまったので、本日のお土産品について。


六月の京のお菓子、水無月

平安時代の宮中行事が起源で、宮中の人々は無病息災を願って氷室の氷を食していました。(枕草子にも記述があって、植物の蜜などをかけて食べたそう。)
もちろん真夏に氷室の氷だなんて、庶民には手の届かない高価なもの。

そこで庶民が生み出したのがこれ。

餅やういろうの生地は氷を模し、その上に邪気払いの願いを込めて小豆を配し、蒸して冷まし三角に切り分けた菓子、水無月という和菓子です。

室町時代には存在があったそうで、ずいぶん長いこと京都の人に愛されている和菓子です。

水無月とは、神無月と同じように、水の月、神の月という意味です。
「無」は古典では、~のという役割で、~が無いという解釈ではないそうで。(いろんな解釈がありましたが・・・)
水の月、六月。一年のちょうど半分ですね。夏越の祓と言い、過ぎた半年の罪と穢れを払い、これからの半年の無病息災を願って食べます。茅の輪くぐりも一緒ですね。

まぁ、あんまりそんなことを考えずに食べている私なのですが、
最近はプレーンに加え、抹茶、黒糖など種類豊富です。和菓子屋さんによっても粉の配合が違うので、食べ比べてみるのも楽しいです。
基本的には餅屋さんが作るものですが、上生菓子を作る和菓子屋さんでも作っているところ多数。(和菓子屋と言っても担当区分があるのです。)



今年は餅菓子の仙太郎さんで購入しました。安定の美味しさです。
くどくなく、すっきりとした味。小豆がぎっしり敷き詰められていてしっとりした食感。甘いのかな、と見た目でそう感じても意外とあっさりとして、餅なのにヘビーじゃない。
そんな仙太郎さんの水無月でした。







アフターは、よーじやカフェです。いつも混みあっているイメージで、今回初めて入りました。お抹茶カプチーノにはお馴染みのあのお顔。
最近、可愛くデフォルメ化したロゴもできたみたいで、なかなか可愛いらしいですね。
よーじやさんは、約100年前から京都で創業。歌舞伎俳優や芸舞妓の御用達化粧品屋さんで、店頭でコスメや石鹸やあぶらとり紙を販売。修学旅行生もちらほら。





はい。
今回も無事に終えることができました。皆々様ありがとうございました!

チラシ置かせていただいた、まつはさん、かもがわカフェさん、六花さん、沖のまちやどさん、ゲストハウス神奈寐さん、
前回置かせていただいた、フランジパニさん、火裏蓮華さん、定食SOTOさん、
ありがとうございました。

次回の予定は、、、未定なんですが、やりたいコースはたくさんあります!
路地と図子と抜け道を通る?武将のお屋敷巡りますか?酒蔵巡りも可。3つの二条城巡る?お楽しみに。


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